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初代団長 和田英樹
「応援団を作りたいと思うんですが、協力していただけませんか」……私が、当時の体育会会長の田川君(応援団2代目団長)から、初めて依頼を受けたのは、昭和41年(1966年)2月、空手道部の追い出しコンパが子飼の「サイトウ」で行われた席上でのことだった。その折、私は空手の練習中に骨折して、まだ、左足にはギブスがはめられ、松葉杖をつきながら、そのコンパにも参加していた状態であったのだが、軽い気持ちで「足が良くなったら」と、引き受けてしまった。 やがて、新学期が始まり5月になった。私は4回生の3年生というイッケン・フクザツな立場になった。対商大春季定期戦の市中パレードがあるというので、例のごとく花畑公園に集合した。当時、私はエールひとつ知らない、一人の団員も持たない、文字通り名目だけの団長であった。 いつものように商大と熊大がむかいあって挨拶をかわす。商大応援団のエールが終わると、「礼儀だからお宅もやってくれ」ということだ。私に出来るはずはない。応援団の作法……、そんなこと私が知っているわけもない。でも、やらねば戦う前から熊大が敗れたことになる。少なくともあのときはそう感じた。そして、この瞬間が、応援団結成への私の決意を不動のものにした。 私は恥ずかしかった。そしてまた、この上なく憤りを感じた。何も知らない者達から嘲笑をうけているのが恥ずかしかったのではない。私を笑っている相手の学校に対しての憤りを感じたのでもない。何のために己が今、この公園に集結しているのかさえ考えてみようともせず、自分の学校が当面の戦いの相手校から面前で笑われているのを見ながら、自分も一緒に笑っている連中の神経がたまらなかったのだ。一体、何のための結団式なのだ。 あの頃までは、確かに戦う前から勝敗は決していた。参加することに意味を見出そうとするのは確かに尊いことだ。でも、力いっぱい、精いっぱい、戦おうという意志を持たずに何が参加だ。 6月18日、インカレの団長会議が佐賀大学文理学部会議室で行われた。そして、そこに集結した九州各大学の応援団を直ちにこの目で見、正直言って、そこに存在する不可思議なものを痛感せずにはいられなかった。俺が求めていく道はーーー俺がこれから作ろうとするものはーーーこんなんじゃない……。その時、恐怖の下で一生懸命自分に言いきかせていたような気がする。ともあれ、熊本大学応援団は、その産声を高らかにあげる日をめざして陣痛の苦しみ真只中を歩き始めたのだ。 【結成に至る日々】 S41年7/1~7/7 初めての合宿(於:工学部記念館) 応援の「お」の字も知らない者ばかりが集まって、暗中模索、試行錯誤の一週間。熊商大との合同練習で(少なくとも、あの時の意識の中では)生死の間をさまよいながら練習方法を知る。 同年7/15~7/18 インカレ 佐賀大学でのインカレに参加した。開会式後のエール交換では、8名のバックで80名の応援団にも負けなかったつもり。破れ太鼓にオンボロの旗。それでも胸を張って歩いた。演武が無くて、号令に合わせて空手のから突きをやったのもこの時だった。 同年10/17 早朝練習開始 団員は全員空手道部員であった。空手部の練習があるので、応援団の練習は朝早くせざるを得なかった。そして、そういう状態の中で、早起きに大きな意味があることも知った。 同年11/1 初演武(於:県立図書館ホール) 前日、国文科の研究室で即席に作った“武夫原頭に草萌えて・巻頭言”の演武を初公開。この演武が永久に残るようになるとは、この時夢にも思わなかった。 同年11/3 学園祭・演武(於:学生会館前広場) 夜6時45分より。この頃は技術も糞もなかった。ただ、精いっぱい、力いっぱい無我夢中であった。 同年11/10 第10回熊大対熊商大定期戦前夜祭(於:水前寺体育館) バンド演奏の後、演武を行った。今考えてみると、ふき出したくなるほど未熟な演武であったが、全員、力の限り、声の限り精一杯やった。その意味では素晴らしい演武だったと思う。 まず一つのけじめがついた。熊本大学応援団は、その礎を築いたのだ……と思ったのだが。出来かけたと思ったとき、団はまた、振り出しに帰ることを余儀なくされた。 その日のことは、今でも忘れられない心の記録として、私の心の奥深くにしまいこんである。定期戦終了後のある日、体育会室で全団員に集合してもらって、応援団に残るか空手道部に帰るか一人ひとり質していった。空手部に入部してきた連中なのだから、空手部に帰って行くのは当然のことだった。でも、一人ひとりの口から、直ちに「空手部に帰ります」という言葉を聞いた時、私は、悲しみとも憤りとも、まさに表現しようのない感情にとらわれた。 彼等も応援団を心から愛していた。そのことはよくわかっていた。一度でのこの中で生活したことのあるものなら、それは説明する必要のないことだ。心の中では誰もが悲しみをかみしめながらそう言っているのだと思うと、余計に自分を抑えられなくて、誰に対するともなく(たぶん自分自身に対して)つい、荒い声を出してしまった。 それから、副島と二人でトボトボと私の下宿へ帰った。黙って歩いた。歩きながら考えた……。あの時は一人だった。今は……こいつがいる。古賀がいる。柏原藤子君もいる。演武もある。太鼓も団旗もある……。ポツンと副島が言った。「団長、やりましょう……!」ありがとう副島!俺はお前の口からそれを聞きたかったのだ。 今まで、血と汗と涙で築きあげてきたものを無にしてなるものか。心はもう決まっていた。井川、池口、井上、木部よ、宇佐、田中、西岡! 今まで本当に有難う。捨て石として、拍手を受けずに去っていた友よ!心からありがとう。これからは空手道一筋に力いっぱい頑張ってくれ! 団はまた、ふり出しに帰った。だが、意志あるところには、やはり道がある。体育会会長の田川、副会長の原、両君が役員を辞して入団した。南が入り、吉永、嶋田も入った。そしてまた、安倍もこの集いに帰ってきた。団は、再び練習を開始した。 S42 1/6~1/9 リーダーシップトレーニング(於:国立阿蘇青年の家) 同年1/14 クラブ対抗駅伝(於:立田山) 体育会総会のあと26チームが参加して応援団は16位。このあと新年会を開催。 同年3/27~4/10 合宿(於:五葉会会室) 当時、五葉会会長の福島浩義君とは、一年時からの無二の親友であり、団合宿の際には、度々この会室を借用したものだった。 同年4月 応援団は初めての新入生を迎え、団員獲得に血眼になる。が、自然、私の母校である福岡県立豊津高校出身者がその大半を占めるという偏った形」にならざるを得なかった。また、この月にインカレ参加費を得るため、寮のベットを組み立てるアルバイトをしたが、これも当時の団員にとっては忘れ得ぬ想い出の一つである。 同年5/10~ 早朝練習開始 同年7/11~7/13 インカレ(於:九州大学) 熊本スターレーンのレンタカー・マイクロバスで、ポン友二宮滋夫君の運転で意気揚々。 同年7/11 開会式・エール交換 同年7/12 九州南北乱舞合戦・福工大の代わりにトップで出場。第2学生歌、制覇、同期の桜、武夫原等に草萌えて。 俺が、はじめて応援団を作ろうと決意して以来、目的としたものは全て果たした。あとは初団式を待つのみ。 【その日の日記より】 何もないところに何かを作る そして そこに生まれた新しい存在に 一人 また一人と集い合う 集まってくる 喜びがあり 悲しみがある “生きている”ことをしみじみと感じる そうだ! 人生は感動だ 汗と涙で築きあげる感動だ 同年11/24 熊本大学応援団結成記念演武会 この日をもって我が熊本大学応援団は名実ともに出発した。 俺はもう要らない。学園の中に、今迄見ることが出来なかった新しい種子を俺が蒔いた。その萌芽は、それがもし、前向きの姿勢のものであるならば、きっと意味あるものに違いないと信ずる(日記より) この日、初代副団長副島靖英と私は、熊本大学応援OBとなった。
by kumadaiohendanob
| 2006-10-19 21:34
| 初代
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