熊大応援団設立40周年OB会にあたり、記念誌発行も考えましたが、あまりにも莫大な経費と時間、労力が必要でありますので諦めざるを得ませんでした。しかし、応援団の生き様は過去の「剛毅」の中に眠っています。特に第9代で作成した10周年記念誌(1974年12月発行:昭和49年)には、貴重な誕生秘話等が投稿されています。時代を超え、時代を超えたからこそ、ますます輝いている資料をこのまま眠らせるわけにはいきません。そこで、このホームページ上にダイジェスト版として再編集をして公開させていただきます。この復刻版が創成期の皆さんには懐かしい思い出となり、現役の団員の皆さんには今後の応援団生活の道しるべになることを期待しています。なお、ダイジェスト版であり、応援団とのかかわりに関する記事のみ抜粋しており、また管理人で若干の編集をさせていただきましたことを申し添えます。また、今後は20周年記念誌等のダイジェスト版にも取り組み、応援団の歴史を後世に残して行きたいと考えております。
部長 金守新一
熊本大学応援団創設10周年にあたり、記念行事を盛大に実施することは意義深いものがある。初代団長の和田君を始めとして多くの先輩達が熊大を巣立っていったわけだが、現在でも一人ひとりの面影が私の脳裏に深く刻まれている。 社会で初年兵として、公私多忙をきわめ、諸君はお互いの間でも音信が途絶えがちだと思うが、私自身折りにふれ懐かしい便りに接すると、「ああ、彼も元気でやっている。」と、無性に顔が見たくなることがある。今回OBを含めたこのような総会を開催し、一堂に会し、過ぎ去った学生時代を偲びつつ、或いは実社会における諸々の体験を語り合う機会を得たことは、本当に素晴らしいことだと思っている。 私事になるが、私は6月中旬、病に倒れ、入院、7月中旬退院、8月、9月と絶対安静に療養を続けてきたが、体調も本格的に回復したので、当日は諸君の話を聞きながら久しぶりに痛飲をしたいと思っている。書きたいこともたくさんあるが、今回はこのくらいにし、あとは諸君の元気な姿を見た上での楽しみにしています。 (写真は昭和48年12月13日:第5回演武会にて)
OB会会長 和田英樹
ありがとう。 何に対してなのか自分にもわからない。でも、今の自分を生かしてくれた何物かに対して、ただ、ありがとうと言いたい……そんな気持ちである。 「10周年は女房同伴で集まろう」折りにふれて私達はこんな話をした。しかし、そんな話をしながら「夢だ」と呟いている、もう一人の自分をいつも感じた。その夢が、今、ここに、こうして現実となっている。どうして嬉しく、またありがたくない筈があろう。その喜びを、この集いの中で過ごしてきたみんなと、心ゆくまでかみしめていたい……今はそんな気持ちである。 (写真は昭和48年12月13日:第5回演武会にて) 過去は過ぎ去った日々でしかない。しかし、その過ぎ去った日々があって、はじめて今日がある。今日の、この感動は、10年という歳月が生み出したものなのだ……。と同時に決して忘れてならないことは、今日の、この感動が、「明日」を培っていくということだ。出来るか出来ないかは、やってみなければわからない。大切なのは、「出来る」と信じることだ。 あの頃は……。太鼓が欲しかった。団旗が欲しかった。部室が、演武が、練習場が……、そして何より団員が欲しかった。欲しかったから求めた。求める気持ちに終わりはなかった……。そして、今こそしみじみ思う……。それが目的だったのだと。求める日々が、夢に近づく日々だったと。 何もなかった。だから夢があった。だから可能性があった。だから生き甲斐があった。10周年を迎えた今、一体何があるだろう。これから何を求めていったらよいだろう。孤高……あくこともなく求め続けていく団員諸君にこれからの夢をたくしつつ、私の拙い詩を10周年に寄せる。 終るのではない はじまるのだ 生きているかぎりいつでもどこでもそこで終るということはない 生きているかぎり いつでもどこでもそこからはじまることができる 若者に過去はない 若者にあるのは 常に現在ただいまと未来だけだ 一生懸命生きろ 力いっぱい生きろ 己を信じて精いっぱい生きてきたことに喜びと誇りを感じる日がきっとくる 必ずくる その日まで 黙って歩け
第9代団長 佐藤又次
私達熊本大学応援団も団創設以来、10年を数え、会誌剛毅6号の発行ができますことは、部長であらせられる金守先生を始め諸先輩の方々の応援団に対する常日頃変わらない深い思いやりに相違ないと嬉しく思います。そして、今年ここに、第3回OB会を開催できますことは誠に慶びにたえません。 社会人として歩まれている先輩、家庭を持っておられる先輩、勉学に勤しんでいる先輩、すべての先輩が、青春の一過程において、汗と涙を注がれた熊本大学応援団に新たに思いを巡らせ、練習の地であった武夫原、立田山を懐かしまれることと思います。 10周年記念OB会記念写真(昭和49年12月15日) “光陰矢のごとし”なるほど10年という歳月も過ぎてしまえば、全く早いと思えますが、この10年の歳月の持つ意義は極めて重要なのではないでしょうか。悩み、苦しみ、泣き、皆で綴ってきたのであり、決して楽な道ではなかったと思うからです。また、特に団創設にあたられた先輩方にとっては、この10年という歳月に対する感激は、ひとしおだろうと思います。部屋も旗も太鼓も団員もなかった。全く無の状態から出発した熊本大学応援団が現在に至り、私達で9代目を迎えました。物質的に極めて恵まれた状況の下にありますが、この恵まれていることが、甘えへと転移していくことが、最も恐ろしいことであると考えます。 敵との戦いを、勝負を重視する他のサークルと違い、応援団は常に自己との戦いの中から何かが生まれてくると確信します。現在では、熊本大学に応援団が存在するということは周知のこととなりましたが、これは、諸先輩の精進の足跡に他ならないと思い、私達は応援団の将来への躍進の為、この10年という一節を大切にし、更に大樹へと日々励み、我が応援団の、熊本大学の発展へと精進せねばと思っています。そして、“ああ、今日もやっているな”と皆に思われ、皆がついてくるような応援団になりたいと思います。 最後になりましたが、この会誌作成にあたり御骨折り頂いた方々に深く御礼申し上げます。 押忍
初代団長 和田英樹
「応援団を作りたいと思うんですが、協力していただけませんか」……私が、当時の体育会会長の田川君(応援団2代目団長)から、初めて依頼を受けたのは、昭和41年(1966年)2月、空手道部の追い出しコンパが子飼の「サイトウ」で行われた席上でのことだった。その折、私は空手の練習中に骨折して、まだ、左足にはギブスがはめられ、松葉杖をつきながら、そのコンパにも参加していた状態であったのだが、軽い気持ちで「足が良くなったら」と、引き受けてしまった。 やがて、新学期が始まり5月になった。私は4回生の3年生というイッケン・フクザツな立場になった。対商大春季定期戦の市中パレードがあるというので、例のごとく花畑公園に集合した。当時、私はエールひとつ知らない、一人の団員も持たない、文字通り名目だけの団長であった。 いつものように商大と熊大がむかいあって挨拶をかわす。商大応援団のエールが終わると、「礼儀だからお宅もやってくれ」ということだ。私に出来るはずはない。応援団の作法……、そんなこと私が知っているわけもない。でも、やらねば戦う前から熊大が敗れたことになる。少なくともあのときはそう感じた。そして、この瞬間が、応援団結成への私の決意を不動のものにした。 私は恥ずかしかった。そしてまた、この上なく憤りを感じた。何も知らない者達から嘲笑をうけているのが恥ずかしかったのではない。私を笑っている相手の学校に対しての憤りを感じたのでもない。何のために己が今、この公園に集結しているのかさえ考えてみようともせず、自分の学校が当面の戦いの相手校から面前で笑われているのを見ながら、自分も一緒に笑っている連中の神経がたまらなかったのだ。一体、何のための結団式なのだ。 あの頃までは、確かに戦う前から勝敗は決していた。参加することに意味を見出そうとするのは確かに尊いことだ。でも、力いっぱい、精いっぱい、戦おうという意志を持たずに何が参加だ。 6月18日、インカレの団長会議が佐賀大学文理学部会議室で行われた。そして、そこに集結した九州各大学の応援団を直ちにこの目で見、正直言って、そこに存在する不可思議なものを痛感せずにはいられなかった。俺が求めていく道はーーー俺がこれから作ろうとするものはーーーこんなんじゃない……。その時、恐怖の下で一生懸命自分に言いきかせていたような気がする。ともあれ、熊本大学応援団は、その産声を高らかにあげる日をめざして陣痛の苦しみ真只中を歩き始めたのだ。 【結成に至る日々】 S41年7/1~7/7 初めての合宿(於:工学部記念館) 応援の「お」の字も知らない者ばかりが集まって、暗中模索、試行錯誤の一週間。熊商大との合同練習で(少なくとも、あの時の意識の中では)生死の間をさまよいながら練習方法を知る。 同年7/15~7/18 インカレ 佐賀大学でのインカレに参加した。開会式後のエール交換では、8名のバックで80名の応援団にも負けなかったつもり。破れ太鼓にオンボロの旗。それでも胸を張って歩いた。演武が無くて、号令に合わせて空手のから突きをやったのもこの時だった。 ![]() 同年10/17 早朝練習開始 団員は全員空手道部員であった。空手部の練習があるので、応援団の練習は朝早くせざるを得なかった。そして、そういう状態の中で、早起きに大きな意味があることも知った。 同年11/1 初演武(於:県立図書館ホール) 前日、国文科の研究室で即席に作った“武夫原頭に草萌えて・巻頭言”の演武を初公開。この演武が永久に残るようになるとは、この時夢にも思わなかった。 同年11/3 学園祭・演武(於:学生会館前広場) 夜6時45分より。この頃は技術も糞もなかった。ただ、精いっぱい、力いっぱい無我夢中であった。 同年11/10 第10回熊大対熊商大定期戦前夜祭(於:水前寺体育館) バンド演奏の後、演武を行った。今考えてみると、ふき出したくなるほど未熟な演武であったが、全員、力の限り、声の限り精一杯やった。その意味では素晴らしい演武だったと思う。 まず一つのけじめがついた。熊本大学応援団は、その礎を築いたのだ……と思ったのだが。出来かけたと思ったとき、団はまた、振り出しに帰ることを余儀なくされた。 その日のことは、今でも忘れられない心の記録として、私の心の奥深くにしまいこんである。定期戦終了後のある日、体育会室で全団員に集合してもらって、応援団に残るか空手道部に帰るか一人ひとり質していった。空手部に入部してきた連中なのだから、空手部に帰って行くのは当然のことだった。でも、一人ひとりの口から、直ちに「空手部に帰ります」という言葉を聞いた時、私は、悲しみとも憤りとも、まさに表現しようのない感情にとらわれた。 彼等も応援団を心から愛していた。そのことはよくわかっていた。一度でのこの中で生活したことのあるものなら、それは説明する必要のないことだ。心の中では誰もが悲しみをかみしめながらそう言っているのだと思うと、余計に自分を抑えられなくて、誰に対するともなく(たぶん自分自身に対して)つい、荒い声を出してしまった。 それから、副島と二人でトボトボと私の下宿へ帰った。黙って歩いた。歩きながら考えた……。あの時は一人だった。今は……こいつがいる。古賀がいる。柏原藤子君もいる。演武もある。太鼓も団旗もある……。ポツンと副島が言った。「団長、やりましょう……!」ありがとう副島!俺はお前の口からそれを聞きたかったのだ。 今まで、血と汗と涙で築きあげてきたものを無にしてなるものか。心はもう決まっていた。井川、池口、井上、木部よ、宇佐、田中、西岡! 今まで本当に有難う。捨て石として、拍手を受けずに去っていた友よ!心からありがとう。これからは空手道一筋に力いっぱい頑張ってくれ! 団はまた、ふり出しに帰った。だが、意志あるところには、やはり道がある。体育会会長の田川、副会長の原、両君が役員を辞して入団した。南が入り、吉永、嶋田も入った。そしてまた、安倍もこの集いに帰ってきた。団は、再び練習を開始した。 S42 1/6~1/9 リーダーシップトレーニング(於:国立阿蘇青年の家) 同年1/14 クラブ対抗駅伝(於:立田山) 体育会総会のあと26チームが参加して応援団は16位。このあと新年会を開催。 同年3/27~4/10 合宿(於:五葉会会室) 当時、五葉会会長の福島浩義君とは、一年時からの無二の親友であり、団合宿の際には、度々この会室を借用したものだった。 同年4月 応援団は初めての新入生を迎え、団員獲得に血眼になる。が、自然、私の母校である福岡県立豊津高校出身者がその大半を占めるという偏った形」にならざるを得なかった。また、この月にインカレ参加費を得るため、寮のベットを組み立てるアルバイトをしたが、これも当時の団員にとっては忘れ得ぬ想い出の一つである。 同年5/10~ 早朝練習開始 同年7/11~7/13 インカレ(於:九州大学) 熊本スターレーンのレンタカー・マイクロバスで、ポン友二宮滋夫君の運転で意気揚々。 同年7/11 開会式・エール交換 同年7/12 九州南北乱舞合戦・福工大の代わりにトップで出場。第2学生歌、制覇、同期の桜、武夫原等に草萌えて。 俺が、はじめて応援団を作ろうと決意して以来、目的としたものは全て果たした。あとは初団式を待つのみ。 【その日の日記より】 何もないところに何かを作る そして そこに生まれた新しい存在に 一人 また一人と集い合う 集まってくる 喜びがあり 悲しみがある “生きている”ことをしみじみと感じる そうだ! 人生は感動だ 汗と涙で築きあげる感動だ ![]() 同年11/24 熊本大学応援団結成記念演武会 この日をもって我が熊本大学応援団は名実ともに出発した。 俺はもう要らない。学園の中に、今迄見ることが出来なかった新しい種子を俺が蒔いた。その萌芽は、それがもし、前向きの姿勢のものであるならば、きっと意味あるものに違いないと信ずる(日記より) この日、初代副団長副島靖英と私は、熊本大学応援OBとなった。
初代副団長 副島靖英
10周年がとうとうやってきた。過去を精一杯生きてきた男達が童顔をほころばせながら一同に会する。金守先生の元気なお姿を拝見できる。先生どうですか、などと先生をだしにして一杯やれると思うと嬉しい。酒がはいると目がなくなってしまう南の顔を思い出す。チビチビやる田川、ススルような英樹(以後バカボンと記す)、可可大笑の古賀、最初紳士であと野獣の原、吉永等々の思い出は尽きぬ。 オスと言って杯を交換する。押忍のニ文字のもつ意味を酒とともどもしみじみと味わう。一緒に握り飯を食ったとか、商大でしごかれたとか、共有している場を持っていた懐かしい過去からのオス。奥さんはどうですか?仕事は?といった現在の状況を思いやるオス。オスの持つ意味は限りなく深く優しい。 はじめてオスに接した時、米つきバッタの動作をし、奇妙な声を上げる集団が不思議でならなかった。団にかかわってからも、その中にアナクロリズムを感じながら、一方では、応援団に、いや、ある目的に自己を埋没させることの喜びと不安を感じながら、理性と感情のバランスをとろうと必死になりながらいつも言っていたオス。苦しんでいた自分を懐かしく振り返らせる後輩のオス。最近はいい年をしていつまでも学生好きで困ったもんだという、うれしく、はずかしいオス。まさに20歳の如き心情である。 楽しい酒と思ったのは初めての応援団のコンパで井川豊彦が水前寺清子の歌を唄って手拍子をたたきながら飲んだ酒。上通りのどこだったろうか?とにかく2階だったことは覚えている。バカボンと俺とが3年で、後は皆一年だったから、責任を感じながら飲んだことを覚えている。応援団の意味や行動さえ理解できずによく強引に引っぱったものだ。 淋しい酒は追い出しコンパの時に飲んだ酒、久保と酒をたてつづけに陣屋の杯(湯のみと言った方が良いくらい大きかった)で、三杯飲んだ。それから別れといって一人づつについで貰ったから20何杯か飲んだと思う。二次会の時、カウンターに座ったことまで覚えているが、朝起きてみたら、古賀の下宿に寝ていた。酒を飲んだ朝の虚脱感は何とも言えず、水道の蛇口から飲む水も朝の冷気を伝えなかった。 酒の想い出はつきぬが、俺にとって酒は格好の悪い想い出の方が多い。大体俺は、球技以外は格好が悪く(人生も又しかり)できているようだ。応援団でゲーゲーやった苦い格好の悪い想い出が残っている。最近は少し強くなったようだが普通の者に比べるとほどほどに飲めるということだ。量は少ない。 最近の酒のたしなみに一つ、付け加えられのは家内がちょっとだけつきあえるようになったことだ。しかもかなり進歩が著しい。この現象はうれしくもあり、かなしくもあるといった複雑なもので、余りやりすぎるとこちらの分が減る。ただし、酒について理解を示すようになったのは良い。まあ、プラスマイナスでプラス0.2ぐらいの所であろう。 夏はビール、秋ぐちは酒、冬は焼酎、春はあまり飲まぬ、春は職業柄進学、入学、家庭訪問と他所で飲むせいかも知れぬ。二人で飲むのは夏、敵がビール2杯、こっちが4杯で、あと焼酎と相場がきまっている。1本じゃ多すぎるし(腹がふくれる)、さりとてあの味は忘れられぬし、まあ必然的な登場人物(残ビール処理者)かも知れぬ。 テキも残務処理と知ってか、さるもの2杯以上は飲まぬ。2杯以上飲むと、あと1本と指を突き出すことを度々の苦い経験で知っている。経済的限度を知っていると言える。俺も根本は俺の月給にあるから、一方的に早く持って来いと言った文句は言えぬ。(哀れは亭主なりにけり) しかし子どもらは、酒やビールを注ぐのが好きで、我が教育者として見事にその点は躾けてある。子どもが味方で、酒やビールを自主的に冷蔵庫からとって来て自主的につぐ。俺は自主的が昔から好きなので、もちろん自主的に飲む。そして家内も最近は妻より母の方が多いから子どもにかまけ、俺に文句を言っても子どもに甘いから黙って持って行かせる。まさに子どもは強烈な味方である。 先の家庭訪問等々などではないが、安酒でも、少しくらいうるさくても自分の家で自分の金で、気楽に酒を飲む。この酒はまさに百薬の長である。 徒然草にも書かれているようにあまり飲むのは考えもので、さりとてとんと飲めないのも面白くないものではある。応援団の酒、最近はどうなっているのだろうか。酒の中に深い味がこめられ、コクのある酒を飲んでいるのであろうか。コクのある酒には渋味も苦味ももちろん糖分もあると聞く。舌にのせるとコロコロと芋の葉の上をすべるが如くノドを通るという。
第2回リーダー会での演武です。
![]() ![]() 昭和43年(1968年)7月の九州インカレで長崎に遠征しました。 ![]() ![]() ![]() 昭和44年(1969年)2月に開かれた第2代幹部の追い出し行事での記念写真を掲載します。 ![]() ![]() ![]() ![]()
第3代団長 古賀正博
熊本商科大学の門を入り、体育館の横を通っていくと広々とした運動場があった。10年前のその運動場で我々、全員は裸であった。1,2……1,2の声が、大きく運動場に広がっていく。額から冷たい汗が出てきて前が良く見えません。このまま眠ってしまおうかと思った。 瞬間、あのシコ立ちの練習が終わったのです。やっとの思いで立ち上がり、一時ジーとしていました。が、オスという声とともにランニングへと入りました。本当に私の最後の最後の力を振り絞って完走することが出来たのです。これが応援団結成して初めての商大との合同練習だったのです。 そして、2日目の朝、私達(11人)は決死の思いで(マネージャーにはタンカと氷を用意させ)、またあの門をくぐったのです。2日目は、わりに楽な感がしました。そして最後のランニングの時に木部君がトップをきった時は、ヤッタぞという感が充満していました。この練習で私達がやれたのは、熊大は商大には負けはしないという、たった一つの自負心だったのです。 それから3ヶ月後、我々のデザイン(主に副島さんの)した応援旗ができました。一見してなんとなく大漁旗の感は脱しえませんでした。 それから半年して、やっと今のあの重い校旗が出来たのです。一番初めに手にしたのは原先輩でした。持ち時間は20秒だったと思います。それから南君が35秒持ち、その日のうちに、佐村君が武夫原で30分持つことが出来ました。それから旗手は佐村君に決まり、彼は定期戦の時は、2時間ジーと持つはめになったのです。 まだまだ、いっぱい思い出の日々は浮かんできます。武夫原にて皆で飲んだ時、新入生と草千里で飲んだ時、原先輩が裸で我々の下宿へ来られた事、田川先輩が人生論を話された時の事、和田さんの夢に出てきた女性の事等……思い出はつきません。 昭和43年(1968年)9月の合宿の写真5枚です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 昭和44年5月の第一回熊本地区五大学総合体育大会での演武の写真4枚です。第一回大会の創成期の熱気を感じる開会式です。超満員での演武は素晴らしいものです。 ![]() ![]() ![]() ![]() 最後に昭和45年(1970年)2月7日に第3代幹部の追い出し会を開催していただきました。(宴会は安心荘でした) ![]() ![]()
第4代団長 佐村輝男
(1)ホルムート先生と和田団長 昭和42年(1967年)5月、春眠暁を覚えずの候、当時ホルムートというドイツ語の先生が、現在体育館が建っている所に住んでおられた。我々は恒例の早朝練習(発声練習)を学生会館2階ロビーでやっていた。朝6時半頃、学校に向かっているホルムート先生が見えた。私自身、先生は早く学校に行かれるんだなあと思った。ところが学校でなく、学館の方に来るではありませんか。何故だろうと思っているうちに2階に上がって来ました。表情は何かこわばっていました。 ![]() 結局、我々がホルムート先生の真意を伝えるまで、彼は先生の嫌味に気づかなかった。これも彼のあだ名、「ウルタン」を支持する一事象であろう。 (2)田川団長と階段 昭和42年(1967年)末、田川団長に交代してまもない頃だったと思う。田川団長を先頭に立田山階段に行った。165段、それは嫌な練習場であった。5~10往復すれば、かなり疲労する。今日も5回往復くらいだろうと思い、いつものペースで走っていた。 1,2回やったところで団長が30回やろうか冗談めいて言った。我々は5回往復したので、次のうさぎ飛びに移るものと思っていた。しかし、階段を下りると又同じように登りだす。10回を過ぎ、15回、20回、まだやめない。足はよく上がらなくなっていた。後はただ惰性、惰性、とうとう冗談が本気になって30回やってしまった。 思うに田川団長は、一度口外したら必ず実行する方であった。しかも階段は団長が一番苦手とするものであったと記憶している。我々は30回も往復したのだから、これで階段は終りであろうと思ったが、あにはからんや続いて、うさぎ飛び、あひるとやらされた。 思うに田川団長は自己に対して非常に厳しい方であった。竹ざお集団の中に一人でなぐりかかっていった事件も、それを物語るものであろう。あだ名「……駄目男」がどこから来たのか見当がつかない。
第4代総務長 桃坂恵次
私は、熊本大学応援団学部応援団学科(大学2,3年の頃のノートの表紙には全てそう書いていました)に入学したのは昭和42年(1967年)4月です。ちょうど桜の花の美しい頃でした。それ以来、この応援団という不可解な集団の一員となり、また何とも知れない目的に向かって前進していた日々でした。その毎日が、今では最も充実した時であったような気がします。あの学生時代のだらしなさ、今職業を持ってみると痛切にそのことを感じます。もしこの応援団というものがなかったならば、私にとって大学の4年間はただ遊ぶためだけのものであったかもしれません。 講義を受けなくてバイトに行った時も、またパチンコに行った時も5時になると必ず武夫原の上に突っ立っている。それから何が起こるか覚悟をしつつ……。いや、もうどうにでも半ばあきらめつつ……。 「どうせ日に一度は通らなければならない関門なのだ」 「もう2時間もすれば楽になるさ」 「全ては時間が解決してくれる、さあやるぞ!」 (無言) 押忍! 「ああ、やっと練習が終わった」 「気持ちがいいなあ」「腹が減った」 4年間こういうことの繰り返しで過ごしたような気がしますが、今から思うとよく務まったなあと我ながら感心する次第です。 一日24時間の中で、1時間でも2時間でもこういう苦しみの中に飛び込んでいき、そしてそれに耐え抜いていくこと、これは人生にとって非常にプラスになるとお思います。最後に、「さあやろう、今日という日は二度と来ない」という言葉の意味をよくかみ締めつつ、応援団のたゆみない前進をお祈りいたします。
第4代リーダー長 児倉静二
終日、武夫原に寝ころび、土の香りと草いきれの中で、思い切り息を吸ってみる。青空と陽の暖かさ、風のざわめき、鳥のさえずり……、立田山は緑に寝そべり、楠樹は楠樹で、静かに息をしているばかり……、形は変わっても、そこに息づくものは、そう変わらない。 五月の熊本は、3年ぶりの帰郷だった。生かされているという宿命の中で、精一杯生きる。そういう日々の中に、何かがきっとある。真実、そう思う、この頃だ。
第5代総務長 石丸壽朗
応援団との最初の出会いといえば、入学してまもなく、新入生歓迎オリエンテーションで演武会を見て、学生服姿の団員のピシッ、ピシッと決まった“一挙手一投足”に魅せられた時からだったと思います。 リーダーの掛け声一つで一糸も乱れないようになる為には、ある程度の練習はするのではないか、と自分なりに思っていたのですが、いざ実際にやってみると、お手手振り振り、腕立て、腹筋、うさぎ跳び、カメ、四股立ち、サーキット、押忍1,2、発声練習、立田山の階段等、想像を遥かに越えたシゴキの毎日であった。 こんな毎日だったから、何の為に俺は今こんな事をやっているのだろうか。何故、こうも自分の体を痛めつけなければならないのか、応援団に入る為に、大学まで来たのか等、悩んだこともしばしばであった。それでも俺はやめなかった。そしてやめなかった事に感謝している。何故だろう? 俺は、そこに応援団独特の人間の付き合いの「場」というものあったからだと思う。そこには、放課後同じように練習で若さを発散した男どもが、先輩、同輩、後輩を問わず一同に会し、酒を飲み交わしながら、人生論、愛情論について語り、辛苦し、涙して、学生歌を唄っていた。それも単に表面的な酒の場だけでなく、本当に、心底から、皆うち解けあって話していたように思える。 ![]() 核家族化時代と言われるようになった今日、最初はお互いに他人同士が、応援団という一つのサークルを通じて意気投合し悩み、悲しみ、苦しみ、楽しみを分かち合い、本当の友情を勝ち得ていく事は、何とすばらしい、男らしい事ではないか。中には半強制的に入団させられた者もあろうし、何気なく入った者もあろう。このように入団時点では、人それぞれ違うが、入団した以上は、最後までやろうではないか。 なるほど、最初の1,2年間は練習がきついだけだろう。だが、それだけで終わってはならない。お互いに心の底から、打ち解けあえる「場」というものを見つけて欲しい。言いたいことがあるなら、どしどし言うべきである。熊本大学応援団には、そういう「場」があると確信する。 そして、自ら突き進んで行き昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分になろうではないか。私の団員として過ごした4年間には、数々の想い出がありますが、中でも、多くの先輩、同輩、後輩を得たことが一番幸せだった事です。
第5代統制長 犬童一昭
熊大応援団が結成されて10年。 馬鹿な人間も相当に増えた事だろう。 俺もその馬鹿な人間の一人。 俺にとって学生時代は応援団しかなかった。 応援団を抜きにした俺なんか考えられなかった。爪先から頭のテッペンまでどっぷりと浸かっていた。今、その応援団がとても懐かしくなる時があり、反面、非常に空しくなる時もある。他にやるべき事はなかったか。当時は浸かりすぎるほど、浸かっとったから、何も考えなかったけど。 何も考えずに無我夢中で過ごした頃がいい。 馬鹿は馬鹿どうしがいい。 利口な人間の中にいると窮屈で息が詰まりそうになる。 しかし、もう一回応援団をやれと言われても俺は絶対にやらんだろう。あんな馬鹿げた事は……俺も利口になったんだ。
第6代リーダー長 田尻大
![]() 1年生の時は、先輩の言葉に従って(自分では納得できないこともあったが)行動したと思う。1年の前半は学園紛争で満足した講義も受けられず、毎日、午前中はパチンコ、集会、麻雀あるいは討論(口論)で時を過ごし、夕方になると自然足が武夫原に向かう。この時よく言われた言葉は、『自分のやれるだけの力を出せ。先輩に付いて来い。』である。クラブの厳しい、辛い練習が終わり、先輩の下宿で酒を飲みながら、とくとくと言われた言葉は「先輩を立てろ」である。それにもう一言、「勉強は学校の講義だけじゃなか」である。今でも、考え悩み、答えがすっきりと出てこないのが、2番目の言葉である。どうも応援団の言葉は、深く考えずに、体で感じ取らなければならないように思える。 2年になると、初めての後輩が出来、少々戸惑いがちになる。自分の思うこと、考えることを素直に、直感的にずばりと、棟方志功氏の版画のように鋭く表現し、行動できたらと強く思う。このことは、現在では自分のひとつの欠点になっていると思う。この時代はどういうわけか幹部の方と皮膚の皮一枚程しっくりしないように思える。これは立場の相違といえば簡単だが、やはり自分達の思慮の浅さが大きく原因しているようだ。そしてこの期間ほど、苦悩し、先輩を憎しみ、たまにはうらやみ、同輩と問答を交わして涙し、酒を飲んでは先輩を困らし、自分に嫌悪感を覚え、酒を飲み、また歌をわめいたことはない。そして自己逃避からか、異性を求めることも気分的に起こった。さらにこの一年間ほど、自分を見つめ、格闘したことも確かなようだ。やたらといろんな小説や評論を読んでは、心の慰めを求めたように思う。こうして一応の結論が出そうな時期に幹部交代となった。 斯くして幹部時代となった訳だが、私の行動は「知る人ぞ知る」である。この時期は自ら得た結論に従いながらも、団員にも同情を覚えはしたものの、やはり自分の結論を一徹することになったようである。肉体的にもある程度の苦労はあったが、自分のなりの得た結論を実行しえたという独断性のために起こる甘美さの中に、自己陶酔をしたように思える。この時期にひとつの私の「もっこす」のようなものが誕生したようだ。かろうじて「あばたの部分」を暴露せず、後輩に幹部の任を譲った。 この団生活は、私にとって、かけがえのない充実した期間であったと断言できる。今こうしている私は、数多くの先輩、同輩そして後輩に会い、ともに行動し、彼らから体で感じ得たものを、肉体的、精神的養分として吸収した結果としてある。この期間に、自分を見つめることが出来たことを深く感謝したい。
第6代総務長 野上敬文
最初応援団という存在すら知らず、ましてやる気なんてさらさらなかったものです。われ生理的要求に従い学館へ飯食いに行ったのが運の付き始めで、佐村先輩、上城先輩等に寄り添われ、あの忍耐力に負けて、誓約書に名前を書きましたが一週間は行きませんでした。しかし、同じく学館で飯を食っている所を見られ、応援団に賭けてみようと思い、その日から第一歩を踏み出したような訳です。 練習で四股立ちやればカッコは悪いし、酒飲めば、脳細胞が一億個死んだと言われるし、もっとも計算してみるとどのくらい失われたやら未知数ですが、脳細胞がなくても人間は生きられるものなのか、人間って不思議な生き物ですね。 初舞台は応援団に入ってすぐ、右も左もわからないうちに、熊本五大学の前夜祭で水前寺体育館でやりました。上がった上に上がってしまい、ただもう無我夢中で前の先輩達と真ん前の指揮者を見つめて、まるであやつり人形みたいに手を動かし、足を動かし、声をはり上げて、汗びっしょりになり終わってしまったような気がします。終わった時は爽快でした。舞台に上がるたびに常に同じような気がしますが、段々前へ前へと観客に近づいていくと、責任感だけでますます緊張度が増していきます。応援団の一員としての自覚と責任もそれとともに比例して認識できたと思うのです。 練習で今も思い出されるのは、日の落ちるのも早い、薄明かりの中の冬、立田山の発声練習、下より真正面から吹きつける冷たい風の中で、身体は動かなくなりながらも必死で声を上げた事、無性に町のネオンの色とりどりの光が思い出される。その光を見ながら声を出して暖かくならないもんかと思ったものでしたが、ちっとも暖かくならず、発声練習が終わって身体を動かすと腕はしびれて動かすのにやっとかっと、これで今日の練習も終わり武夫原に帰れたものです。 3番目になりますが、応援団の行事みたいに遠歩みたいに遠歩前一週間の土曜日になるとわりに遠距離を走らされる。1年の時、菊池に向かって走りました。百花園を過ぎる辺りで引き返す話も出たんですが、誰が賛成しても、もっと先へ先へと走り出して、いつしか泗水を過ぎて菊池川まで行っていました。そこで近くの柿の熟れたものを取って食いおいしかったなあ。 その頃までは良かったんですが、帰りは途中から夜に入ってしまい暗くなるし、アスファルトを裸足で走って足は痛くなるし、車に乗せてもらえる気配はなし。頼りはわれ2本の足、ただ必死で暗闇の中を前の人に遅れないようにと付いていくのみ。隣をスレスレに車が通り過ぎても、ただ一心に足を交互に前に出すだけ。ただ家々の遠くの灯が、なつかしく目に映って熊大に着くまでは足を前に出すだけでいいんだ、このとき実に40kmを走った。終わった後のぜんざいの甘さおいしさ、あれは忘れることは出来そうもないが、そのために走るのはこりごりである。 まだ思い出すことはいろいろあるが、断片断片で浮かんできて切りがない。自分自身で今考えるに、今自信となって一つ一つのことが残っているが、もう一度やれと言われても逃げ出す方が早い気がする…。
第6代団長 福岡 潤
立田山の階段を遠く金峰山の山懐から漏れる淡く、切ないオレンジ色の夕焼け、俺は、あれが好きだ。
第6代統制長 遠山 栄二
縦走を終えて家に着いた時の快い疲労と充実感は忘れがたい。応援団ももはや思い出に過ぎなくなりつつある今、立田山で精いっぱいの力を振り絞って練習したあの情熱をもう一度、山で感じることが出来れば最高だなあと思いながら休日が近づくと天気だけが気になる今日この頃である。
第6代統制長 遠山 栄二
6代目は、昭和46年(1971年)6月19日の幹部交代より始まって翌年の6月17日までの1年間であった。6代目が入団したのは昭和44年(1969年)であり、いわゆる熊大紛争の真っ最中であり、応援団においても創成期から安定期への転換期であったように思う。それから4代目、5代目と続いて応援団の進路も一応確立された時期であり、逆に、ともすれば惰性に流れやすくもあったよう時期であったかもしれない。 さて、例年通り7月初めの合宿を終えて、インカレは大分であった。3泊4日の日程で別府の旅館を根城に好天気の中で大分出身の中川総務長の道案内でスムーズな応援、壮行会を行った。この中で印象に残ったのは大分大学体育館におけるバスケットボールの対大分大学戦であった。大変なシーソーゲームで延長までもつれこんでの勝利となったが、夏の日差しが差し込む狭い体育館内のむんむんする暑さの中での必死の応援であったので、勝った時は全員で喜んだ。 夏休み明けの9月の合宿は阿蘇地獄キャンプ場において行なった。体力回復とレクリエーションが目的であり、早朝のランニングと発声練習、昼間は中岳登山をしたり軽い基礎体力、演武練習、そして夜は、ゆったりと温泉につかるという今までにない合宿であり思い出に残った。 9月25日には、この一年の一つのハイライトとなった第2回OB会をOBの方のほとんどのご出席のもとの行なうことができた。昼間の体育館での演武会、赤門前での記念撮影に続き待望のコンパは陣屋において行なわれた。久しぶりのなつかしい顔ぶれに楽しい一夜を過ごした。 ![]() さて、恒例の阿蘇遠歩の特徴は幹部が年齢にもかかわらず健闘したことと1年生(8代目)の不振であった。また、この頃から団員の足の故障が目立ち始めた。 11月は演武会に向けて8時、9時までの練習が続いた。そして、 この年の総決算とも言うべき第3回演武会を12月10日、市民会館大ホールにおいて開催した。我々としては総力を注いだつもりであったが、前回とあまり変わり映えがせずマンネリ化の傾向が避けられず今後の問題を残した。 年が明け目だった行事もなかったが、忙しい中で、とかく見失いがちであった応援団本来の問題、人間関係などをミーティングなどで取り上げた時期であった。現在何かというとすぐに飲みに行く例の「正六」に、みんなが通い始めたのもこの時期からであった。 4月の合宿は鹿児島大学の寮で、あいにくの雨にも関わらずみっちり練習をやった。特に鴨池陸上競技場の周りでやったウサギ、カメの思い出は深い。そして、打ち上げはいつも焼酎オンリーであった。そして新入生を迎えて、一連の行事のあと幹部交代となったのである。
第7代副団長 竹下次郎
以前やっていた応援団の話でもしながら行こうか。あれは丁度入学式の日、坊主頭に学生服姿で、食堂で弁当を食べていると、二人の応援団員だという人達がやって来て牛乳などを飲ませてくれたさ。そのまま立ち去るのは気の毒になって、話を聞いているとなかなか面白いことを言うんだよ。 「学生生活がどうの、人間がどうの」とね。それでね、その人達が言う様に、だまされたつもりで決心したよ。入団をね。それとどんな練習にも耐えよう、絶対やめまいと自分に誓ったよ。本当だよ。練習は苦しかったよ。朝起きると、今日こそは人並みにやるぞと心に言い聞かせてね。夜寝る時はやっぱり駄目だったと悔しがってね。足が遅かったからね、ひどく。 その頃は、学館などでリーダーの顔を見るだけで、ゲンナリして食欲がなくなったよ。しかし、今から考えてみると、随分、体が丈夫になったよ。御陰様でね。 酒も飲んだよ。それも正気を失うまでね。周りの人に世話を焼かせっぱなしさ。履物を間違うのは始終で、先輩の部屋で鯨の潮吹きよろしく吐き上げたのも一度や二度の事じゃない。酔っ払って戸板に乗せられて運んでもらった事もあるよ。こんな事は消そうにも消せないで死ぬまで頭の中に焼きついていることだろうよ。つらい、苦しい事は思い出の中では楽しく変わるけれどもね。 ![]() 入団、酒、回転する草千里。合宿、声嗄れ、露に濡れた武夫原。インカレ、平和台、塩吹く学生服。ボシタ、ボシタ、ボシタ祭り。遠歩、輝く星空。演武会、緊張、緊張。 2年リーダー。3年幹部。それと今の俺。世の中面白いね。 応援団の中にはおもしろい奴がいっぱいだったな。元々人間って、おもしろいものだと思うけど、応援団の中ではそれが素直に外に顕れてくるんだよ。 こんな高い所で、青空の下で、海、山、川を眺めていると、何ともいい気分だ。応援団の仲間と一緒にいるとね、この気分と似通ったものを感じるよ。そろそろ下に降りようか。歩きながら「学生歌」を歌うか。これ何回歌ったかわからないくらいだよ。 白銀の光あふれ 濃緑にむせぶ学舎 若き望み 若き望み ああ自由の風 ミネルヴァの森になごむ (にばぁ~ん!) ああいい気分、気分。明日からも元気にやるぞ。おお、ここから見ると夕日が美しい。デッカイ太陽だ。お陽さまに向かって大きな声で…… 『押忍!』
第7代副団長 前島光幸
きつかったけど一生懸命だった4年間、その生活の中で体験し、体得したものが、今の私を支え今からも私の心の中に生きていくものと思われます。さて、それではそれは何だ?と問われても言えません。決して言うのが面倒くさいとか、けちな了見で言えないのではなく本当に言えないのです。しかし、私の中には、はっきりと感じられます。これからも今私が感じているものを一人でも多くの後輩が感じてくれることを願っています。
第7代統制長 原田順一
勉強の面だけでなく他の何かで自分を鍛え、学んだものをもって教壇に立つことを夢みていました。しかし、私が鍛えるその何かがわからずにいた時、私の前に現れ、自分をためしてみようさせたのが応援団でした。それから4年間応援団とともに過ごした日々は、私にとって本当に大きな試練でありまた実り多き収穫となりました。
第8代渉内部長 山崎公任
今の僕の心境としては、応援団が10周年を迎えることよりも、応援団を退いた直後感というものが強い。応援団に入団したことは、僕の人生に少なからず影響を与えた。応援団生活は損得ぬきのことである。素直に応援団に入って皆と一緒にやれて、3年間あまりの間、やり通したことは良かった戸思う。応援団に感謝している。しかし、大学生活、浮いた噂ひとつなかったことは残念である。僕には、応援団という恋人があったのです。当分の間、そばに女なしで、やるぞ!といっておきます。 そして、もし今年、卒業するとなると応援団とも、今一層、離れて暮らすことになる。数年後、数十年後も応援団が存続していて、その時の後輩達と、まるで一緒に練習をした仲間と同じような感じで、何でも思うことが言え、酒を酌み交わせることが出来たらと思う。代が代わるにしたがって、人も変わるが、応援団をやったと言う気持ちは同じだろうと思う。今一度、応援団生活を、振り返るとともに諸先輩のことを思い、ともに過ごした仲間のことを考えてみる。
第8代副団長 江藤浩之
![]() ただ今、10月20日午前10時、原稿の締め切りを3時間後に控えて、とにかく何か書こうと必死なのです。昨夜、金子(9代渉内長)に、「明日までに原稿を出して頂かないと困ります」と言われ、10周年の記念すべOB会誌に、自分の文章が載ってないのも寂しいものだろうから、真剣に書こうと務めているのです。 そもそも、もっと早く書いておけば何ということもなかったのですが、なかなか筆が進まず、とうとうここまで追い詰められて、やっと書こうという気になったのです。しかしながら小生の頭の中は、昨夜から今朝にかけての徹夜麻雀で、思考力が全く鈍っているのです。今にもくっつかんとする両瞼を必死に書いている状態です。だいたい、昨夜、池松(9代統制長)に誘われた時に拒むべきであった。最初は、池松の下宿でやっていたのですが、途中で家主さんに叱られて下宿では出来なくなり、「それでは!」ということで部室まで行って雀卓を囲むほど夢中になっていたのです。 そして、12時間にも及ぶ徹マンを終えて部室を出ると太陽がまぶしく、頭がクラッとした。そして、結局徹マンの空しさを感じながら下宿に戻ったのです。しかし、それにしても下宿で麻雀が出来ずに、部室でやらなければいけないとは、なんとも悲しいことである。
第8代団長 長谷政晴
秋である。夏から秋へ、動から静へ季節のサイクルが動く時、その中間にあるこの季節は、滅びゆくもののように美しい。青空、虫の音、十五夜の月、朝もやのなかにひびき始めた百舌の声は何ともいえず、すがすがしい。天高く馬肥ゆる秋、スポーツの秋でもある。この空の色、この気候、下宿の汚い四畳半を抜け出して、武夫原、立田山で汗を流すスポーツをする。爽快な姿が矢張り、若者には似つかわしい。スポーツといえば、私がいつもみとれるのは、各種各様のユニフォーム姿である。野球、テニス、サッカー等々。実に何のムダもなく、決まっているもんだとつくづく思う。精悍で、自由で、意気込みが体全体から伝わってくるようだ。 応援団の練習着とて然り、現役のユニフォーム姿は実にきまる。難点を言えば、少々臭気を放つ点と、多くの者は、股の部分が吹きさらしになって破れている点である。が、これは本人の心がけ次第でどうでもなるもの。とにかく各様のユニフォームというもの、若者の覇気を表して余すところがない。そういう姿が武夫原で、立田山で、あるいは体育館で、汗を飛び散らせ、息をはずませる。飛ぶ、走る、叫ぶ。あえいで苦しそうな顔のもの、へばっている者、つくづく運動をする人間というものは美的である。美の最たるものの一つと私は確信する。生々しい生命に躍動、汗の喜び。 スポーツのあとは、酒がよい。秋の夜長に話はつきるまい。我らは一升瓶提げて立田山に行こう。熊本城を見下ろして語らう酒は、かの英雄豪傑どもの酒に劣るまい。興のらば、うたうべし、応援団の一節を……。 また、真昼間の微酔は、すこぶる気持ちがよい。まるで、王侯貴族になったようだ。ヒマな学生時代に堪能しておこう。 振り返ってみると、応援団は、私に多くのことを教えてくれた。本当に一生懸命だった応援団。わきめもふらず、やっているうちに現役時代は過ぎた。つまづき、よろける私が3年間続けられたのは、諸先輩方の温かいご指導と多くの後輩達の支えであった。全ての人達に、心からありがとうと言いたい。ありがとう、応援団、これからの一層の活躍を期待する。いま、入学以来、4回目の秋が過ぎる。やさしく、淋しそうな微笑をみせて、秋が、私の学生時代が往く。二度と、再び、戻ってこない。私の学生時代……。
第8代総務長 中野和夫
昨年の3年生の時の思い出は「遠歩」……。遠歩には自分との戦いや記録への挑戦といった面があり、やりがいのあるものに思えます。60kmの道程の中に一つの人生路みたいなものを見出すのです。調子のいい時もあれば、辛く苦しい時もあるし、そして、最後には「やった!」という充実感がたまらなく好きなわけです。タイムも幹部の中では一番の6時間49分で調子がよかった、いやいや痛快であった。今年も4年生で出ようと思っていますが、練習もしてないしマイペースで自重をしながら走るつもりである。ところで、今年の秋は、卒論にも追われています。これまで、あまり真面目に勉学にいそしんでなかったので、学生生活の残り半年で取り返せねばならない苦しい立場になっています。応援団を辞めたいと思ったときに「何の為にこんな厳しい練習に耐えなければならないのか?」と同じように「何の為に勉学、卒論を書かなければいかないのか?」とも思いますが、これも自分に対する甘えが潜んでいるようです。応援団、学問ともに甘いものではないので、自らの努力で切り抜けていかねばと思っています。
第8代副団長 今村美喜雄
昭和48年12月13日(木)午後6時、第5回熊本大学応援団演武会が始まった。まず、金守先生、和田初代団長、体育会委員長、長谷団長の順番であいさつがあった。あいさつが終わり、いよいよ演武会の本番である。第一部最初の演武の紹介が始まる。さあ、紹介が終わった。中野総務長が出て行く。客席から声がかかってくる。正面を向いた。押忍、易水のうら巻頭言である。 「アイン、ツバイ、ドライ、ソーリャー、易水流れ寒うして、昿原草は枯れ果てぬ……」ウーン、もうすぐ終わるぞ。今度は自分の番だ。どうしよう。押忍、終わった。本当にどうしよう。総務長が帰ってくる。続いて第2学生歌の紹介が始まる。紹介のことばが耳には入るけどソワソワして落ち着かない。紹介が終わった。さあ、落ち着いて出て行こう。途中でころんだらどうしよう。下駄がうまく脱げるだろうか。綱は外れるだろうか。演武は間違いはしないだろうか。帰りには下駄は履けるだろうか。そういうことを考える余裕もない。 ![]() さあ、この辺で手を回すところだな。一回、二回、三回、フレー、ニバーン、サンバーン。もうすぐ終わるぞ。チャチャチャンチャン、終わり方はこうだったかな。太鼓とあったようだから、これでよかったんだろう。「押忍!」終わった。下駄を履く。やっと履けた。さあ、帰るぞ。アー、これでやっと一回目の出番が終わったのだ。何とか間違わずにやれた。よかった、よかった。ちょっと落ち着いたぞ。 今度の出番は最後から2番目だからそれまでゆっくりしようか。客席に行ってみよう。見知った顔が少なからずあった。ある人は良かったといってくれた。お世辞であって嬉しかった。はじめて熊大応援団の演武会というものを外部から見てみた。リーダーもバックも気魄がこもっていて非常に頼もしい気がした。それから実戦演武、2回生がリーダーをするのだが、自分が昨年やったことを思い出した。みんな緊張してやっているようだった。 そして、第2部も終わり、第3部の中ごろに来るとだんだんソワソワしてくる。最後から2番目に再び自分の番が回ってくるからである。みんなの演武がだんだんと済んでいく。自分の前は「同期の桜」であった。それも終わった。再び出番である。自分は演武はうまい方ではないのだから力一杯やってその心意気だけでも感じ取ってもらおう。 「押忍!」「ショーリヘノ、ハクシュ!」割りと落ち着いているみたいだ。自分の演武が出来そうな気がする。最初の三拍子、何とかやれた。「イチビョーシ!」普段はジャージで練習するのに今日は学服だから窮屈な気がする。一拍子が終わった。「ニビューシ!」だんだん息が早くなった。「ウィー」ドン、ドン……。だんだん調子に乗ってきたぞ。手を間違えねばよいが。だんだん早くなってきた。立ち上がろうか、もうすぐ手が動かなくなるぞ。次にうつろう。立った瞬間だけ楽になる。「サンビョーシ」肩で呼吸をし、ハァハァいっているのがわかった。とにかくきつかった。しこ立ちが高いとわかっていても下ろすことが出来なかった。 ![]() 「押忍!」暑かった、暑かった、とにかく暑かった。学服がだいぶ水気をもっていた。バックはもっと暑かっただろう。興奮もまださめやらなかったが、終わったという感じと、演武している時間が短く何となくもの足りなさを感じた。巻頭言を聞きつつ自分は控え室へと帰っていった……。 この冊子が届く頃には第6回の演武会も終わっている事だろう。1,2年生諸君もこの演武会の舞台に幹部として立つまでは団活動を続けていって欲しい。そして、この感激を自分のからだで感じとって欲しい。
第8代マネジャー 田中千恵子
ドキッ!、幹部の顔がずらり、まだ一年生だった私にとって、とても大きく、りりしく映った幹部の姿、整頓された部室、今でも初めて部室に足を入れた時の光景が忘れられません。 あれから雑用と行事に追われて、あっという間に一年半が過ぎました。5時になり、みんなが部室から武夫原へと出て行くのと逆に、私は、それから2時間、仕事をしながら留守番をしなければなりません。例の体操の声が聞こえると私も応援団の一員だと思いなおし、練習最後の“押忍”が聞こえると、ホッと一息つけます。みんなと親しくなり、親切で協力してくれても、時には、団員とマネジャーという異質なものを感じ、部室で一人いるとき、ふと感じた寂しさは、今思うと、クラブ員の信頼関係が強い応援団にいたから、余計に感じたのかもしれません。 鹿児島の暑い中での応援、それを見てどこの応援団よりも素晴らしく見えた日、寒い日の演武練習、野球の応援、基礎体力の時のみんなの顔、コンパの席でのみんなの持ち歌も、みんな私の学生時代の思い出となりました。応援団生活のなかで多くの先輩方を知り多くのことを学ばせてもらった事に感謝しております。
第8代統制長 高橋敬一
記憶をたどってみれば、7年前のことである。高校の松林のなかで、和田さんとの出会い、熊大応援団というものの存在を知った最初の時であった。そうして、4年前あこがれの大学生活が始まり、和田さんが作った応援団にも入りました。ここまでは意気揚々と希望に燃えた若者の姿があった。しかし、応援団に入って一週間もたたないうちに、重大な問題にぶつかりました。「挫折」です。こんなきつい練習を続けていくと、自分が描いた大学生活の全てが、めちゃくちゃになってしまうのではないかという不安にとりつかれたのでした。そしてこの気持ちは、日に日に私の心の中で大きくなっていきました。その時の心境を語る資料が、実は私の手許にあります。「退団届」です。 それを書いた時から、今日まで誰にも手渡すことなく机の引き出しの一番奥に大切に保管していたのです。今、封を切って、当時の心境を思い出してみようと思います。その前に前文を引下にあげてみます。 『-退団届-まことに勝手ながら応援団を退団させていただきたいと思います。つきましては、応援団の練習を始めて一週間そこそこで、このような決心をしましたのは、このような決心をしましたのは、まことに根性のない駄目な男だと思っています。最初応援というものは、格好がよいものであこがれていたのですが、日がたつにつれて苦しみだけになりました。毎日練習が終わって下宿に帰ってただ寝るだけ、そして朝早く起きることもせず、このような生活を毎日続けていくことに耐えられません。また、今後長く続けられる自信もありませんし、早く心を決めた方が、ご迷惑をかけることも少ないと考えました。以上簡単ではありますが今の僕の心境です。』 私は、この時の心境を一笑にふしたり、否定したりはしません。なぜなら、この決断が、自分の大学生活を左右することになったからです。こんな私が、今応援団をやり通してこの原稿を書いているのです。自分でも信じられないくらいですし、すばらしいことだと思います。自分が応援団生活で得た数え切れないくらいの多くのものを、後輩達がまた同じように獲得してもらいたいと思います。10年間は、一区切れでありますが、同時に未来へ続く出発点です。
第8代総務長 中野和夫
昭和48年6月23日に春金荘で幹部交代が行なわれた。7代目団長である河村さんから新幹部の発表がなされ、そこに我々第8代幹部は誕生した。我々は歴代の中でも最高の8人の幹部であった。ただ、8人に対して1,2回生はあわせて11人と少なく、その点は残念であった。それから忘れてはいけない人、マネジャーである田中さんである。彼女の活躍によって、我々の団活動も順調に行ったことを銘記しておく。 最初の仕事は、7月からの合宿があった。場所は本光寺であった。なにしろ幹部交代して1週間しか経っておらず、何をどうやっていいのか分からずじまいのうちに慌しく過ぎてしまった。ただ、合宿中に一年生の山下が足を骨折して、インカレに連れて行かれなかったのが残念であった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 年が明けた2月には、7代目の追い出しコンパがあった。我々が鍛えられた7代目であったが、さすがに練習不足のためか追い出し練習では音をあげていたことが懐かしく思い出される。 春の合宿は、福岡の九大の松原寮で行なった。この合宿は出発する時が大変であった。国鉄、私鉄のストと重なった為に交通機関がズタズタであり、無事に福岡まで着くかどうか非常に不安であった。当日は、まず小倉での和田先輩の結婚式に出席するためバスや一部運行の国鉄を利用して、小倉まで行き、その日のうちに九大の松原寮に着くという予定であった。このスケジュールは予定通り行うことが出来たが、予定外の出来事は、和田先輩の結婚式で全員が酔っ払ったことである。今思えば、小倉から博多まで全員酔っ払っての旅であった。ああ、恐ろしい合宿の方は、毎朝、松原寮から東公園までの片道3kmの道程を走った。合宿中には原先輩も来られ、一緒に打ち上げの酒を飲んだことを記憶している。 ![]() 4月には新しく部員を迎えた。最初は9人もいたが、退団するものもいて残念であった。そして、6月15日には9代目にバトンを渡すことが出来た。
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